箏の歴史

琴の歴史や流派について

箏の歴史


日本古来からある「こと」は和琴(わごん、やまとごと)と呼ばれ、6本の弦を持つ(まれに5本)。弥生時代から奈良時代の遺跡などに発掘例があり、現在も雅楽に含まれる「国風歌舞」(御神楽など)で演奏される。また、平安時代にはやはり雅楽の楽曲種類の一つである「催馬楽」(さいばら)(在来の民謡などを当時の渡来音楽である雅楽の編成に編曲した管絃伴奏付き歌曲)の伴奏楽器として、和琴が加わることがあった。また、日本の古代音楽を最も古い形のまま現在まで伝承しているとされる恐山などのイタコが、交霊の際に演奏する楽器の一つとしても用いられる。アイヌの伝統楽器の箏であるトンコリ(カーとも言う)は、和琴と類似した構造を持つ。一方、奈良時代に唐より伝わることになる中国の箏の起こりは、秦の時代(紀元前3世紀頃)に蒙恬(もうてん)という人物が作ったのが始まりとされる。

流派


主に生田流(いくたりゅう)と山田流(やまだりゅう)がある。
外見上の目立った違いは爪の形および楽器を構える姿勢であり、生田流は角爪を用い、この角を有効に使うため楽器に対し左斜め約45度に構える。
山田流は丸爪を用い正面に構える。
レパートリーについては、双方の流派が双方のレパートリーを広く扱うため、あまり差異は無い。
相対的な比較としては山田流が生田流よりも「歌もの」を多く扱い、生田流は独奏曲において技巧が発達している。
楽器の形状(長さ、楽器の膨らみ、音穴、細部の装飾など)は生田流の箏は楽箏(雅楽の箏)の形をかなり残していて、俗箏として改良を加えられた山田流式の方が音量が大きく豊かな音色である為、現在製作されている箏は一部を除いてほとんどが山田流式の箏である。
ただ沖縄、または沖縄の文化を伝えている地域では、八橋流の流れをくむ独自の琉球箏曲が発展・継承されていて、そちらは現在でも生田流式の箏を使っている。それ以外は生田流の奏者でもほとんど山田流式の箏を使用している。
調子(調弦)において、一部の調子の名が双方の流派で異なるため注意を要する。

生田流とは


八橋検校ののち、北島検校を経て、元禄の頃に京都の生田検校によって箏曲は改変、整理されたとされる。
これは実際には師の北島がすでに密かに行なっていたのを生田が受け継ぎ、公にしたとも言われる。
また生田検校は地歌曲に箏を合奏させることを始めたとされている。
そして三味線の技巧に対応させるため、箏の爪の形状が大きく変えられることとなる。
ただしこの時代、生田のみならず、大阪の継山検校の継山流などでも同様の流れがあり、実際には必ずしも生田検校一人が行なったことではないと言われる。
この他にも上方では新八橋流、藤池流なども生まれたが、それら各流間の差異は大同小異であり、次第に「生田流系」とでも呼ぶべき一つの流れに収束して行った。
この生田流系はまた多くの派に分かれつつ、幕末までに京、大阪を中心にして、名古屋から中国、九州まで広く行なわれるようになった。
本来は箏組歌の伝承組織上の相違から生じたもので,生田検校を祖とする芸系をいう。
大坂では継山流,八橋流に対立し,菊筋の大部分 (菊池派は継山流) と中筋 (石塚,市浦検校系で,新生田流ともいい,九州系の一部はこれから出た) などがこれに属し,京都では藤池流に属さない派をいう (名古屋系は京都から出た) 。
今日では,八橋流,藤池流などが絶えたことと,江戸には生田流だけが進出していたことなどから,江戸で成立した山田流に対して,他流をすべて生田流というようになった。
なお,津軽地方に流伝したものが,「郁田流」と表記されることもある。